徳川慶喜(堂島大吾)
維新でのキャラ名 | 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ) |
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龍が如くでの配役キャラ | 堂島大吾(どうじま だいご) |
龍が如くシリーズ登場作品 | 龍が如く2、3、4、5 |
33歳(龍が如く4) | |
構成員3万人を数える関東最大の極道組織『東城会』の六代目会長。 東城会二代目会長・堂島宗兵(故人)の息子にあたる。 龍が如く2では神室町で毎日浴びるように酒を飲み歩き、だらしない生活をしていたが 桐生一馬と出会い説得されて、揺れ動く東城会を支えることにした。 背中には不動明王の刺青を彫っている。 |
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声優 | 徳重聡 |
- 徳川慶喜について
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- 江戸幕府第十五代征夷大将軍
- 最大の試練に独り立ち向かう”最後の将軍”
徳川幕府300年の歴史において、最も困難な局面の舵を取る男。
若いながらもその知力・胆力は歴代将軍の中でも突出しており、剣の腕も超一流。
徳川幕府の維持にのみ奔走する首脳陣の中にあって
唯一この国のために『成すべき事』に気づいている。
しかし、将軍という立場がその決断を許さず、責務と理想の狭間で苦悩する。
土佐を脱藩し隠れるように生きる龍馬と、この国の頂点に座する慶喜……
正反対の立場にあるこの二人の男。
出会いの時は、果たして訪れるのか……?
■史実における人物像
■生没年1837〜1913年、水戸藩出身
徳川幕府の最後の将軍(15代目)。
将軍家直系ではなく、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれる。
第14代将軍の座で家茂(いえもち)か慶喜かで争われた。
1866年7月21日に14代将軍・家茂は21歳で大阪城で病死。
幕府老中らは慶喜を後継者に推薦したが、慶喜は拒み続けたものの五ヶ月後に就任した。
30歳で征夷大将軍になり、薩長同盟による武力討幕を回避しようとして
徳川家を頂点とした新しい国家体制をもくろみ、政権を朝廷に返上した(大政奉還)。
しかし思惑通りにはいかず、鳥羽・伏見の戦いが起こり大阪城から江戸へ逃走する。
江戸城が無血開城され幕府軍は敗北。徳川慶喜は政治の第一線から退いた。
晩年の慶喜は趣味に没頭して生きた。享年77歳。
狩り、自転車、カメラが趣味で、側室2名との間には24人の子をもうけた。
佐々木只三郎(渡瀬勝)
維新でのキャラ名 | 佐々木只三郎(ささき たださぶろう) |
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龍が如くでの配役キャラ | 渡瀬勝(わたせ まさる) |
龍が如くシリーズ登場作品 | 龍が如く5 |
構成員3万5千人を数える関西最大の極道組織『近江連合』の若頭直参渡瀬組長。 郷田龍司が去った後の近江連合において、一番の武闘派として知られている。 喧嘩する相手には強くあって欲しいという思いもあり、桐生一馬の極道復帰を願っていた。 背中には阿修羅の刺青を彫っている。 |
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声優 | 西凛太朗 |
- 佐々木只三郎について
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- 京都見廻組
- ”第2の勢力”を率いる実力者
新選組と対をなす存在として、京にその名をとどろかせる戦闘集団…… それが『京都見廻組』。
新選組が隊士の生まれを問わず、ただ強い者を受け入れるのに対し、
見廻組は将軍家直参の武士によってのみ構成された名門。
京の護衛という同じ任務をになう、この二つの組織。
表面上こそ協力関係にあるが、水面下では京の覇権を巡り、激しく対立している。
佐々木は見廻組を率いて、事あるごとに新選組の前へその姿を現し、立ちふさがる。
その実力は新選組二番隊長の永倉新八も認める程であり、高級な着物に身を包んでいるが
全身から放たれる殺気は壬生狼(みぶろう:新選組のこと)をも狩り殺す。
勝麟太郎(青山稔)
維新でのキャラ名 | 勝麟太郎(かつ りんたろう、勝海舟:かつ かいしゅう) |
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龍が如くでの配役キャラ | 青山稔(あおやま みのる) |
龍が如くシリーズ登場作品 | 龍が如く5 |
堂島大吾の東城会本部長兼会長秘書。東城会直系青山組長。 所属組織は異なるが近江連合の渡瀬勝とは兄弟分。 堂島大吾と山笠組と盃交渉をする際に大吾を暗殺しようと画策したが、 事前に察知されてしまい大吾を取り逃してしまう。 黒澤一派と裏でつるんでいたが、黒幕について話そうとした際に口封じのために 森永悠によって銃殺されてしまう。 |
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声優 | 堀内賢雄 |
- 勝麟太郎について
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- 幕府軍艦奉行並
- 幕府内部に潜む野心家
海外列強の脅威が迫る中、防衛の要である幕府海軍を統括する男。
今の幕府を支える重要人物の一人だが、一方では薩摩藩の西郷吉之助と個人的に接触し
イギリスと強い繋がりを持つという。
謎の武器商人『坂本龍馬』を引き合わせるなど不穏な動きを見せている。
この男の真意とは、一体……?
■史実における人物像
■生没年1823〜1899年、江戸幕府
幼名は勝麟太郎。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに『幕末の三舟』と呼ばれる人物。
旗本の子に生まれ、16歳のときに家督を継ぐ。
勝海舟は剣術と学問を学んだが、西洋兵法に着目しオランダ語の習得につとめた。
1853年6月になるとペリーが来航する。
勝海舟は外圧に対抗すべく軍事体制を述べた『海防意見書』を
老中・阿部正弘に出したことがきっかけで幕府の要職に就くことになった。
33歳には長崎では学校・海軍伝習所を設立。
1860年には咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断し、サンフランシスコへ渡航した。
1864年5月には軍艦奉行に任ぜられ、幕府海軍のトップになる。
1868年には西郷隆盛と会談して江戸城・無血開城の大仕事を果たし、江戸戦火は免れた。