鎌倉時代の歴史
モンゴル帝国について
モンゴル人は、アジアの広大な乾燥地で生活してきた遊牧民たち。
モンゴル帝国の創始者『チンギス・ハン』により、軍事的指導や権力・地位が高まり、
圧倒的な戦闘力でアジアの大部分を征服した。
鎌倉時代中期、チンギス・ハンの孫『フビライ・ハン』が日本に2度襲撃してきた。
それらを蒙古襲来『元寇(げんこう)』と呼ぶ。
時代 | 年 |
---|---|
旧石器時代 | 紀元前14000年頃 |
縄文時代 | 紀元前14000年頃~紀元前10世紀 |
弥生時代 | 紀元前4世紀~3世紀頃 |
古墳時代 | 3世紀頃~7世紀頃 |
飛鳥時代 | 592~710年 |
奈良時代 | 710~794年 |
平安時代 | 794~1185年 |
鎌倉時代 | 1185~1333年 |
室町時代 | 1333~1573年 |
南北朝時代 | 1493~1392年 |
戦国時代 | 1467~1590年 |
安土桃山時代 | 1573~1603年 |
江戸時代 | 1603~1868年 |
明治時代 | 1868~1912年 |
大正時代 | 1912~1926年 |
昭和時代 | 1926~1989年 |
平成時代 | 1989~2019年 |
令和時代 | 2019年~ |
元寇と高麗の侵略
文永の役
1268年(文永5)、高麗を属国としたフビライ・ハンが日本に使者をよこし、
何度か「服属しろ」と要求してきたが、
鎌倉幕府の若きリーダー・北条時宗(18~19歳)は従わずに無視。
そして1274年(文永11)に、元寇と高麗による連合軍(兵士26000~30000人、900隻)が、
海を渡って対馬と壱岐を攻め落とした。
次に大軍は博多湾へ侵入し、日本軍(3000人)は必至に抵抗するも敗退。
モンゴル軍との圧倒的な兵数差があったが、その他にもてっぽう(てつはう)という
火薬を使用した兵器(今でいう手榴弾)を投げたり、長い槍を装備し、
毒が塗られた矢で射ったり、ドラを鳴らして馬を驚かせるといった集団戦法で、
一騎討ちの戦い方しか知らない侍たちはことごとく敗退した。
モンゴル軍に民家を燃やされ、見せしめや戦意喪失のためか、
捕虜にした女性は手の平に穴を開けられ、ロープで繋がれて船壁に並べられた。
状況的に日本軍は負けた状況だったが、高麗の資料によると夜に暴風雨がひどかったようで、
モンゴル軍は船に甚大な被害を受ける前に撤退して帰国した。
日本では『神風』で助かったと言われている。
日本軍は反省し、博多湾に石垣を積んで防塁を作り、水軍を強化してモンゴル軍に備えた。
弘安の役
1281年(弘安4)に、またモンゴル軍がやって来た。
南宋を滅ぼして国号を『元』と改めたモンゴル軍は、東路軍と江南軍にわかれて襲撃。
兵士14万人、4400隻という、前回よりも数倍の兵力で押し寄せてきた。
日本軍は防塁を盾にしぶとく戦い、モンゴル軍を上陸させることなく戦い続けたという。
その後は諸説いろいろあるが、台風の影響でモンゴル軍は船に甚大な被害を受けて撤退、
長い期間戦ってたので補給の問題など、何か理由があったのかもしれない。
とりあえずモンゴル軍は、被害を受けて撤退してしまった。
その後もモンゴル軍は日本侵略はあきらめていなかったが、
内部分裂の危機もあり、もはや日本侵略どころではなくなった。
日本では鎌倉武士たちが、多くの出費をしてまでモンゴル軍と戦ったが、
防衛戦だったので幕府の恩賞問題でもめることになった。